モンゴル旅行記(薄田 文男)

M E S T

Mongol Exchange & Support Tour

1997.6.21 〜 1997.6.25



百聞は半見にも如かず

(社)笠間JC モンゴリアンズ

指導力開発副委員長 薄田 文男

 私の先祖はモンゴル人です。私自身全<気付かなかったのですか、現地のモ ンゴル人に聞いてみると、笠間JCの先輩諸兄を差し置いて、私がモンゴル人 フェイスNO.1に輝いてしまったのです。何人にも聞きましたが、やはり私が NO.1(ちなみにNO.2は関謙治君)。言われてみれば今年の指導力開発委員会 がモンゴル行の計画をたて、大草原の中にポツンとあるゲルの写真を見た時「あ あ懐かしい」と感じたのは、委員会内でも私だけだった様です。やはり私はモ ンゴル人を祖先にもつモンゴロイドだったのです。今回のMESTの最大の収 穫はこれに尽きます。

ウランバートル空港
( ウランバートル空港にて南ゴビ行きの飛行機待ち )

 ルックスの話しはさて置き、「見ると聴くとでは大違い」これが私のモンゴ ルの第一印象でした。ウランバートル市民と雄大な草原に暮らす遊牧民とでは、 天と地ほどの差が有りました。もちろん遊牧民はイメージ通りだったのですが、 首都ウランバートル市民はルックスが日本人に近い上、身なりもきらんとした 都会人です。我々が重いだの、何だのと言いながら持ってきた支援物資など必 要なのだろうか、おまけにディスコまであるという。「百聞は半見にも如かず」 でした。
 白土先生の教え子達に聴いてみると、大体2・3世代前までは遊牧民で、当 然親戚の中には、遊牧民がい<つもあると言います。我々が南ゴビで出会った 遊牧民の生活は完全な自給自足。ゆっくりとした時の流れの中で、草原を自由 自在に移動し、家畜の糞まで燃料として使う姿は、環境に優しい「地球市民」 のお手本でした。彼らには遊牧民の強烈な体臭とは裏腹に、自然と共に生きる 一種の気高さ、今と同じ生活形態でアジアからヨーロッパまで支配した大モン ゴル帝国の末裔としての誇り高さを感じ、彼らには我々の援助なと無用の長物 だと思い知らされたのは私だけではなかった様です。
 さらに我々か白土先生の教え子達に支援物資としてわざわざ持って行った物 は、都会人のニーズにもあいませんでした。不要だったのです。では何が必要 だったでしょう。多分それは職業、さらに言えば産業もし<はモンゴルの将来 へのビジョンだった様に思います。今時どんな外国へ行っても自国産の煙草も ピールも無い国にはまず出会えないと思いますが、モンゴル人には産業を興そ うとする気概とて見えません。但し産業の誘致となると話が大きすぎて所謂J C活動では対応できず、こうなると我々に出来た援助とは、モンゴルの次世代 の産業人(例えばモンゴルJCのメンバー)に「このままじゃまずいよ」と気 付かせる事ぐらいだったのかも知れません。このスピードで貧富の差が拡大す れば内戦だろうし、かといって都会人に遊牧民に戻れと言っても無理でしょう。 かなり穿った見方かもしれないがモンゴル人は定住を選んだ時点で間違ったと 思います。

南ゴビの現地人?
( 南ゴビの現地人? )

ソ達時代の撞助慣れで産業は育たずその<せディスコやカラオケはちゃんと ある。稼ぐ手段がないのに浪費する手段はしっかり有る。これで国が立ち行< わけがない。いつまでも援助で食って行けばアフリカ諸国の様に今度は政権が 倒れるでしょう。かといって一度覚えた都市の生活は遊牧より楽で清潔に決ま っています。彼らはもう遊牧民には戻れない。それは中国の経済持区を共産主 義に戻せないのと同義なのです。遊牧民の生活を見てきた我々はそれを実感せ ずにはいられませんでした。
 道は一つ古くは日本の明治維新、新しい所ではASEAN緒国がそうした様 に経済テクノクラートを育て上げ、彼らが独裁に近い体制で国と民を引っ張っ て行くしかないのでしょう。そう考えるとモンゴルの様な遊牧民族には、時の 流れのゆっくりとした社会主義体制の方が良かったのでしょうが、いまさら後 戻りは出来ません。学生の言葉が心に残る「社会主義より資本主義の方がずっ と良い」と。

自由を選んだ以上、頑張れ誇り高きモンゴル人


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